
コミュニケーション様式で分けるとき、ハイコンテクスト文化(high-context culture)、ローコンテクスト文化(low-context culture)などもあります。
"context" とは『文脈』という訳になりますが、文脈でメッセージの意味を理解し合うことができるのがハイコンテクスト文化、文脈で理解するには言葉が足りなさすぎると感じるのがローコンテクスト文化です。
日本はハイコンテクスト文化を有しているので、いろんなものが文から省かれていても人々は普通に問題なく理解し合えます。一方アメリカ合衆国はローコンテクスト文化を有しているので、英語の文は主語を欠かさなかったり、細かいことをいちいち言葉にしないと人々は言っていることを理解しません。
このため日本語の感覚で英作文を行うと、あれもこれも足りずに意味の通らないメッセージになってしまうという現象が起きがちになるわけです。
この二つは個人主義、集団主義と連結しているといわれ、ハイコンテクスト文化は集団主義文化であり(Gudykunst & Ting-Toomey)、日本、アラブ圏、南アメリカ、タイ、韓国、アパッチ族などが例。ローコンテクスト文化は個人主義文化でもあり、ドイツ、スイス、ノルウェー、アメリカなどが例となっています。
ハイコンテクスト文化の方は個人的なことに重きを置き、口約束にも有効性を持たせますが、ローコンテクスト文化の方は個人的な情報は語られず、決め事は書面を使ってこと細かく交わされるのも特徴です。
日本も少しずつですが、個人文化に近づいて来ていると言えるのでしょうか。
もう一つ文化によって違うコミュニケーションの特徴は、時の指向です。
非言語として含まれる時間的コミュニケーション(temporal communication)は、過去文化(past culture)・現在文化(present culture)・未来文化(future culture)で観念の奥にある時間の焦点を変えます。
(Lusting & Koester, 2006)
日本には『袖振り合うも多生の縁』という諺があります。文字通りの意味は、"誰かと着物の袖が触ったというだけのことでもそれは偶然ではなく、何度も生まれ変わりするうちにどこかで知り合っていたからである"ということで、仏教の世界観から来ていますが、ちょっとした出会いでもその人とどこかでつながっていた、あるいはこの先の人生でもつながるかもしれないから大事にしようという意識を産み、人との出会いに深い深い時間の奥行きを持たせるのです。
この『縁(karma)』とは日本人の人間関係に対する観念の芯とも言えるべきもので、他にも恋愛成就を『縁結び』、なかなか絶てない関係を『腐れ縁』と呼び、ひょんなことで顔を付き合わせることになると「これも何かの縁だから」と挨拶をします。 つまり、日本の人間関係は過去・現在・未来の全ての時間枠、しかもこれは一生の中だけのことではなく前世も来世も盛り込んでいるということになるのですが、未来になったら今のことは過去になりますので、過去のための今を大事にしようとするコミュニケーションが図られるのです。
『恩』『義理』といった観念も日本特有で、人間関係がその場限りのやりとりでさっぱりと終わることのないような仕組みになっています。 関係を表す言葉は日本には沢山あります。『切磋琢磨』『阿吽の呼吸』『同じ釜の飯を食う』『金魚の糞』『おしどり夫婦』『犬猿の仲』などなど、こんなにあるのは日本だけではないかしら?
人間関係の始まり方にも特徴があります。
日本ではグループの中での"初顔"の人はまず挨拶から始まり、控えめな態度を期待されます。年齢の把握も始まりには大事となることがあるのは上下関係の厳しい封建制と年功序列制のためで、先輩に失礼するのを避けようとする配慮です。
ところが例えばアメリカでは、「どうも、よろしくお願いします」のような挨拶は省かれ、初顔でもグループで行われている会話にどんどん参加し発言するという形は不自然ではありません。「ところで、私は○○です」と、後から自己紹介とはざらなのです。
これは先ほどのハイ/ローコンテクスト文化で特徴付けられた、個人的な情報の交換が先にされることが重要とされるか、そんなものは後回しでよいとされるかの差だと言えるでしょう。
2014年2月26日、4月14日発行分より移動・編集
参考: The Interpersonal Communication Book, Joseph A. DeVito, 2009
参考: The Interpersonal Communication Book, Joseph A. DeVito, 2009